歌舞伎という文字が示すように、歌舞伎は音楽的で舞踊的な演劇である。
しかし、かぶきの本義は「
近世初頭、打ち続いた戦乱の世が終わると、力を持て余したあぶれ者たちは、伊達な姿を競い合い、喧嘩三昧の日々を送っていた。 秩序や良識に抵抗する彼らを人々はかぶき者と呼んだ。 かぶき者が活躍する舞踊劇がかぶき踊であり、これが歌舞伎の源流であった。
かぶき踊を創始したのは、出雲大社の巫女と称する女性芸人
代わって脚光を浴びたのが、前髪の少年たちによる若衆歌舞伎であったが、これも同様の理由で禁じられ、 やがて前髪を剃った成人男子のみによる演劇として興行を許可されることになる。 野郎頭で演じたところから、野郎歌舞伎と称されたが、容色本位の見世物から、 技芸中心の総合舞台芸術へと歌舞伎は大きく舵を切ったわけである。
阿国のかぶき踊は、中世以来の
歌舞伎は新旧の芸能のさまざまな要素を採取して発展を遂げてきた。 先行芸能の能・狂言からは舞踊の芸脈が導入されたが、他にも能楽の古典的題材や物語性、 狂言のせりふ劇としての技法や諧謔味などが取り入れられた。 女歌舞伎では新奇な楽器であった三味線が用いられるようになり、 若衆歌舞伎では軽業の芸が取り入れられた。 やがて時代が下ると、同じ庶民の芸能として人気を争ってきた人形浄瑠璃から多大な影響を受けるようになる。 人形浄瑠璃の緻密な戯曲構成や文学性に刺激を受ける一方、 歌舞伎は人形浄瑠璃の演目そのものを俳優が演じる独持の演出法を確立していった。 現在も歌舞伎の人気演目に数多い義太夫狂言というジャンルである。
こうして歌舞伎は単一の演劇としては稀にみる間口の広さと奥行の深さを獲得していったわけであるが、 芸能のみならず、近世の文学や浮世絵等の美術とも連動し、 さらには風俗や美意識など文化全般にも電波を送る強大な情報発信源となっていったのであった。
年号 | 西暦 | 事項 | 作品 |
---|---|---|---|
慶長八8 | 一六〇三1603 | 出雲の阿国、京都でかぶき踊を興行 女歌舞伎諸国に流行 |
|
元和 | |||
寛永一1 | 一六二四1624 | 猿若勘三郎、江戸に猿若座を創設(後の中村座) | |
六6 | 一六二九1629 | 女歌舞伎禁止 | |
正保 | |||
慶安 | 女方芸の創始 | 「海道下り」(一六五〇1650) | |
承応一1 | 一六五二1652 | 若衆歌舞伎禁止 野郎歌舞伎始まる |
|
明暦 | |||
万治 | |||
寛文四4 | 一六六四1664 | 続き狂言始まる 引幕・大道具使われ始める |
|
延宝一1 | 一六七三1673 | 初代市川団十郎、荒事を創始 | 「夕霧名残の正月」(一六七八1678) |
八8 | 一六八〇1680 | 富永平兵衛、作者を名乗る | |
天和 | |||
貞享一1 | 一六八四1684 | 人形浄瑠璃竹本座開場 | 「金平六条通ひ」(一六八五1685) |
元禄 | 元禄歌舞伎と呼ばれる時代 | 「参会名護屋」<暫>(一六九七1697) | |
心中物の流行 | 「けいせい浅間嶽」(一六九八1698) | ||
宝永 | 「曾根崎心中」(一七〇三1703) | ||
正徳四4 | 一七一四1714 | 絵島生島事件により山村座廃絶 | 「花館愛護桜」<助六>(一七一三1713) |
享保二2 | 一七一七1717 | 江戸で初めて人形浄瑠璃作品の歌舞伎上演 | 「国性爺合戦」(一七一五1715) |
八8 | 一七二三1723 | 心中物の上演禁止 | 「心中天網島」(一七二〇1720) |
九9 | 一七二四1724 | 江戸三座に屋根設けられる | |
一二12 | 一七二七1727 | 江戸中村座にてセリ出し始まる | |
一七17 | 一七三二1732 | 初代宮古路豊後掾江戸へ下る(豊後節流行) | 「蘆屋道満大内鑑」(一七三四1734) |
二〇20 | 一七三五1735 | 江戸三座に控櫓の制度始まる 花道設置される |
「雷神不動北山桜」(一七四二1742) |
元文四4 | 一七三九1739 | 豊後節禁止 | |
寛保 | 人形浄瑠璃最盛期に入る | 「菅原伝授手習鑑」(一七四六1746) | |
延享四4 | 一七四七1747 | 常磐津節生まれる | 「義経千本桜」(一七四七1747) |
寛延一1 | 一七四八1748 | 富本節生まれる | 「仮名手本忠臣蔵」(一七四八1748) |
宝暦三3 | 一七五三1753 | 並木正三、セリ上げを工夫 | |
七7 | 一七五七1757 | 人形浄瑠璃豊竹座にて三重のセリ上下を工夫 | 「京鹿子娘道成寺」(一七五三1753) |
八8 | 一七五八1758 | 並木正三、回り舞台を考案 | |
明和三3 | 一七六六1766 | 初代中村仲蔵、「忠臣蔵」定九郎に新演出 | 「本朝廿四孝」(一七六六1766) |
安永 | 「妹背山婦女庭訓」(一七七一1771) 「摂州合邦辻」(一七七三1773) |
||
天明 | 天明歌舞伎と呼ばれる時代 | 「新版歌祭文」(一七八〇1780) | |
初代中村仲蔵により立役の舞踊開拓される | 「積恋雪関扉」(一七八四1784) | ||
寛政四4 | 一七九二1792 | 四代目岩井半四郎、「三日月おせん」で生世話演出 | |
六6/td> | 一七九四1794 | 初代並木五瓶、江戸に下る | 「五大力恋緘」(一七九四1794) |
初代尾上松助、鬘の仕掛けなど考案 | 「伊勢音頭恋寝刃」(一七九六1796) | ||
一〇10 | 一七九八1798 | 江戸都座の舞台の破風屋根・大臣柱撤去 | |
享和 | 「絵本太功記」(一七九九1799) | ||
文化一1 | 一八〇四1804 | 初代尾上松助、水中にて早替りの演出創始 | 「天竺徳兵衛韓噺」(一八〇四1804) |
一一11 | 一八一四1814 | 清元節生まれる 爛熟退廃の時代風潮を反映した作劇 |
「於染久松色読販」(一八〇三1803) 「桜姫東文章」(一八一七1817) |
文政 | 生世話狂言・変化舞踊の流行 | 「浮世柄比翼稲妻」(一八二三1823) | |
四代目鶴屋南北の活躍 | 「東海道四谷怪談」(一八二五1825) | ||
天保 | 「六歌仙容彩」(一八三一1831) | ||
一一11 | 一八四〇1840 | 七代目市川団十郎、「勧進帳」で松羽目物を創始 | |
一三13 | 一八四二1842 | 天保の改革により、江戸三座を浅草猿岩町へ移転 | 「勧進帳」(一八四〇1840) |
宮地芝居・役者絵の禁止 | |||
七代目市川団十郎、奢侈の科で江戸追放 | |||
一四14 | 一八四三1843 | 二代目中村富十郎、京都・大坂追放 | |
弘化 | 「東山桜荘子」(一八五一1851) | ||
嘉永 | 「与話情浮名横櫛」(一八五三1853) | ||
安政 | 河竹黙阿弥と四代目市川小団次の提携 | 「都鳥廓白浪」(一八五四1854) | |
白浪狂言の流行 | 「小袖曾我薊色縫」(一八五九1859) | ||
万延 | 「三人吉三廓初買」(一八六〇1860) | ||
文久 | 「青砥稿花紅彩画」(一八六二1862) | ||
元治 | 「曾我綉俠御所染」(一八六四1864) | ||
慶応 | |||
明治五5 | 一八七二1872 | 劇場の新設・移転許可される(守田座、新富町へ) 散切物・活歴物の登場 |
「梅雨小袖昔八丈」(一八七三1873) |
団菊左の活躍 | 「天衣紛上野初花」(一八八一1881) | ||
一一11 | 一八七八1878 | 新開場の新富座客席にガス灯使用 | 「新皿屋舗月雨暈」(一八八三1883) |
一九19 | 一八八六1886 | 演劇改良会結成(演劇改良運動) | 「水天宮利生深川」(一八八五1885) |
二〇20 | 一八八七1887 | 井上馨外相邸にて天覧歌舞伎 | 「籠釣瓶花街酔醒」(一八八八1888) |
二二22 | 一八八九1889 | 歌舞伎座開場 新歌舞伎の登場 |
「素襖落」(一八九二1892) 「鏡獅子」(一八九三1893) |
三五35 | 一九〇二1902 | 松竹合名社設立 | |
四二42 | 一九〇九1909 | 二代目市川左団次、小山内薫と自由劇場創立 | 「桐一葉」(一九〇四1904) |
四四44 | 一九一一1911 | 帝国劇場開場 | 「修禅寺物語」(一九一一1911) |
大正二2 | 一九一三1913 | 松竹、歌舞伎座を傘下におさめる 菊吉の活躍(市川座時代) |
「室町御所」(一九一三1913) 「鳥辺山心中」(一九一五1915) |
四4 | 一九一五1915 | 十三代目守田勘弥、文芸座設立 | 「名月八幡祭」(一九一九1919) |
九9 | 一九二〇1920 | 二代目市川猿之助、春秋座設立 | 「息子」(一九二三1923) |
昭和三3 | 一九二八1928 | 二代目市川左団次一行訪ソ公演(初の海外公演) | 「権三と助十」(一九二六1926) |
五5 | 一九三〇1930 | 六代目尾上菊五郎、日本俳優学校開設 | |
六6 | 一九三一1931 | 前進座創立 | 「一本刀土俵入」(一九三一1931) 「巷談宵宮雨」(一九三五1935) |
一五15 | 一九四〇1940 | 内務省、映画・演劇の検閲を強化 | 「御浜御殿」(一九四〇1940) |
一九19 | 一九四四1944 | 決戦非常措置により大劇場閉鎖 | |
二〇20 | 一九四五1945 | GHQ封建的内容の演目の上演禁止 | |
二二22 | 一九四七1947 | 上演禁止の全面解除 | 「源氏物語」(一九五一1951) |
三二32 | 一九五七1957 | 日本俳優協定発足 | 「若き日の信長」(一九五二1952) |
三七37 | 一九六二1962 | 十一代目市川団十郎襲名 | 「曾根崎心中」宇野信夫脚色(一九五三1953) |
四〇40 | 一九六五1965 | 歌舞伎が重要無形文化財の総合指定を受ける | |
四一41 | 一九六六1966 | 国立劇場開場 | |
四二42 | 一九六七1967 | 国立劇場で歌舞伎鑑賞教室始まる | 「椿説弓張月」(一九六九1969) |
四五45 | 一九七〇1970 | 国立劇場の歌舞伎俳優養成研修始まる | |
四八48 | 一九七三1973 | 七代目尾上菊五郎襲名 | |
五〇50 | 一九七五197五 | 歌舞伎のイヤホンガイド始まる | |
六〇60 | 一九八五1985 | 十二代目市川団十郎襲名 | |
金丸座でこんぴら歌舞伎始まる | 「ヤマトタケル」(一九八六1986) | ||
六三63 | 一九八八1988 | 歌舞伎座百年記念興行 | |
平成 | 歌舞伎ブーム起こる | ||
七7 | 一九九五1995 | 松竹百年記念興行 |
<凡例>
線上の左右の数字は生没年。
太線部分は襲名期間。
人名の前の丸数字は世代数。
絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小せえ、小せえ。「金門五山桐」南禅寺楼門、石川五右衛門
石川や、浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ。真柴久吉
せまじきものは、宮仕えじゃなア。「菅原」寺子屋、武部源蔵
持つべきものは子でござる。松王丸
月も朧に白魚の、篝も霞む春の空、冷てえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと・・・・・こいつア春から縁起がいいわえ。 「三人吉三」大川端、お嬢吉三
しがねえ恋の情があだ、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から・・・・・死んだと思ったお富たア、 お釈迦様でも気が付くめえ。「与話情浮名横櫛」源氏店、与三郎
悪に強きは善にもと、世の譬えにも言うとおり「天衣紛上野初花」河内山
お若えの、待たっせいやし。「鈴ヶ森」幡随院長兵衛
待てとお留めなされしは、手前がことでござるよな。白井権八
知らざア言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残した盗っ人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、 「青砥稿花紅彩画」浜松屋、弁天小僧
今頃は半七っつァん、どこにどうしてござろうぞ。「艶容女舞衣」酒屋、お園
色にふけったばっかりに、大事の場所にもありあわさず「仮名手本忠臣蔵」五段目、早野勘平
今は早、弥陀の御国へ行く身なりせば、十六年は一昔。アァ、夢であったなぁ。 「一谷嫩軍記」熊谷陣屋、熊谷次郎直実
晦日に月の出る里も、闇があるから、覚えていろ。「曾我綉俠御所染」御所の五郎蔵
アアラァ、怪しやなァ。・・・・・うぬもただの鼠じゃあんめえ。この鉄扇を喰らわぬうち、 一巻渡し、きりきり消えて、なくなれエェ。「伽羅先代萩」床下、荒獅子男之助
十年前に櫛かんざし、巾着ぐるみ異見をもらった姐さんに、せめて見てもらう駒形の、 しがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす。「一本刀土俵入」駒形茂兵衛