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平仮名

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平仮名は古くは「かんな」「かな」といい、また「女手(おんなで) 」などとも称せられた。漢字を本当の文字という意で「真字(まな)」 というのに対して、仮の文字すなわち「かりな」と呼び、それが転じて「かんな」となった。 「女手」とは女性が専らこの文字体系を用いたことによるが、平仮名は必ずしも女性専用の文字ではなく、むしろ、 消息文や和歌、また初期の物語、日記などに平仮名を用いたのは多く男性であった。ちなみに、漢字(万葉仮名)のことは 「男手」とも呼ばれた。

な:男手,草仮名,女手

万葉仮名は文字生活に必要なものとして多くの人が習熟するに従って、徐々に草書風に書きくずした字体も 用いられるようになった。 9世紀にはいると、「讃岐国戸籍帳端書(有年申文)」(八六七867年)などに現れる、草書体で書く「草仮名」 が用いられるようになった。 そして、それをさらに簡略化して作り出されたのが平仮名である。

「宇津保物語」国譲巻には、書の手本について叙述する場面で、「真の手」「草」「仮名」の語が見え、 さらに「男手にもあらず女手にもあらず」「男手」「女手」「片仮名」「葦手」があげられている。 「真の手」「草」は真書(楷書)、草書のことで、「男手にもあらず女手にもあらず」は草仮名の名称と見られる。 当時すでに男手(万葉仮名)、草仮名、女手(平仮名)、片仮名がそれぞれ別個の文字体系として意識されていた ことがわかる。 また、「仮名」は葦手(絵画風の技巧的な書体)をも含む草仮名・平仮名・片仮名などの総称として用いられているが、 狭義には女手(平仮名)を意味した。

「平仮名」という名称は「日葡辞書」(一六〇三~四1603~4年)に見えるのが初出であるが、 それ以前からかなり普及していた呼び名であろう。 「平」とは平凡な、やさしいという意で、当時普通に使用する文字体系であったことを意味する。 漢字は書簡文や重要な文章などを書く場合に用いる公的な文字であるのに対して、 平仮名は漢字の知識に乏しい人々などが用いる私的な性格のものであった。

平仮名が作り出されたのは、まず書きやすさが求められたからであろう。 訓点資料に、片仮名に交じって草仮名や平仮名が用いられているのは、 手軽に使えるという実用性によるものである。 平仮名の古い資料には消息文と和歌が多いが、和歌は男女間で贈答されることも多く、 女性も読み書きできるという文字体系が必要とされていた。 平仮名はそうした要請に応えるように字体を簡略化してコミュニケーションの発達をうながした。 そして、平安時代中期の女性たちは平仮名を駆使して、自らの文学を創出していったのである。

平仮名が成立した当初は一音節にそれほど多くの字体は用いられなかったが、 次第に変体仮名と呼ばれる異体の仮名も多くなった。 「秋萩帖」や元永本「古今和歌集」では、(しょ)という 美意識に基づき、複雑な変化を求めて一音節に種々の字体が用いられている。 また、一〇10世紀初めの「因幡国司解案紙背仮名消息」には連綿体が用いられており、 一一11世紀には華麗な連綿遊糸体も現れた。

このように、字形の優美さ、曲線美の華麗さが賞玩され、書という芸術美を探究するべく、 字体が次第に洗練されていったのである。 従って、平仮名の作者を弘法大師とする説は全く信ずるに足らず、 それは多くの人々の手を経て徐々に形成されてきたのである。

ちなみに、書道という概念が成立するのは鎌倉時代以降で、禅僧、 特に高僧の墨跡にはその高い人格がにじみ出ていることから、 書を学ぶことで人間性を磨きあげていくという「道」の考え方を生み出した。 また、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、さまざまな書法が編み出され、 世尊寺流、持明院流、法性寺流、青蓮院流などの流派が生じた。 特に、青蓮院流は御家流とも呼ばれ、江戸、明治に至るまで盛行した。

江戸時代には庶民教育の普及、出版の盛行とともに、 一音節当たりの字体数も少なくなった。 それでも、明治にはいっても「」「」「」などの変体仮名が依然として使用されていた。 一音節一字体による現行の平仮名字体に統一されるのは一九〇〇1900年(明治三三33)の小学校令施行規則改正によってである。 ただし、変体仮名は今日でも商店名や暖簾・箸袋などにその名残をとどめている。

仮名遣い

平安時代から鎌倉時代初期にかけて、語中のハ行音のワ行音化(これを「ハ行転呼音」という)、 ア行のイエオとワ行のヰヱヲとの同音化が生じた結果、ア・ハ・ワ行の仮名の混乱が著しくなった。 そのような表記の混乱を正すため、藤原定家は「下官集」で仮名の使い方の基準を示し、自らも実行した。 これを「定家仮名遣」と呼んでいる。 それは、「い・ひ・ゐ」と「え・へ・ゑ」は古い文献によって、「お・を」はアクセントによって区別する というものであった。 しかし、定家の基づいた資料には既に音韻が混乱しているものもあり、 またアクセントも定家の死後体系的に変化したため、 その基準は一貫性に欠けたものとなった。 しかし、定家の名声によって中世歌学の世界ではこれに従うものが多かった。

江戸時代にはいると、契沖は「万葉集」などの研究を通して、「和名類聚抄」(九三一~九三八931~938年成) 以前の文献には単語ごとに一定した仮名遣いがあることを「和字正濫鈔」で実証した。 この仮名遣いは「歴史的仮名遣い」の基盤をなすものとなった。

明治時代以降、発音のままに仮名を用いる表音的仮名遣いが一部の人から提唱されたが、なかなか実現されなかった。 一九四六1946年(昭和二一21)に至って、ようやく「現代かなづかい」として表音的仮名遣いが内閣訓令並びに告示として公布された。 一九八六1986年にはこれを改定し、小幅の修正を施した「現代仮名遣い」が告示された。

挿絵:「秋萩帖」 挿絵:「元永本古今和歌集」