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挿絵:いろはガルタ

いろはガルタ

「いろはガルタ」とは「いろはたとえガルタ」の略称であり、いろは四十七字と「京」を加えた四十八字を頭字(かしらじ)とする諺を選び、児童遊戯用に内容を示す絵ガルタに作ったものをいう。 現行の「(江戸)いろはガルタ」が成立したのは近世末期の嘉永年間(1848-1854)頃と推定される。 「カルタ」という形式が成立する以前に、青木鷺水「和漢故事要言」(宝永2年・1705)から選んだ「いろはたとえことば」が世間に流布し、小山駿亭「心学いろはいましめ」(文政8年・1825)のような「いろはたとえ」の通釈書が著された。 「いろはガルタ」は初め京都を中心とする地域で編まれ、大阪、尾張地方を経て江戸に到った。 選ばれた四十八項目の諺は通用した地域によって異同が見られ、変化の跡が辿れる。 「い」の項は「一寸先は闇」(京都)が「一を聞いて十を知る」(尾張)となり、江戸では「犬も歩けば棒に当たる」が採択され、「犬棒カルタ」という別称を生む。

京都の「いろはガルタ」は仏教的発想からの諺(「仏の顔も三度」、「下手の長談義」、「地獄の沙汰も金次第」、「袖振り合ふも他生の縁」、「鰯の頭も信心から」、「寺から里へ」等)が多く採られているのに対し、尾張での再録は半数に止まる。 尾張の項は農業的発想の諺(「陰裏の豆もはじけ時」、「牛を馬にする」、「炒豆に花が咲く」、「野良の節句働き」等)が目立つ。 寺院の多い京都、豊饒な農作地帯を控えた尾張という土地柄を背景とする採択である。 現行の「(江戸)いろはガルタ」は、全国各地の文化を総合した江戸という洗練された都市文化に生きる庶民の知恵・機知の集約として、京都・尾張よりも卓越した「いろはガルタ」の成立をみ、各句項の変化に富んだ教訓は近代まで存続したのである。

「れ」の項の「連木で腹を切る」(京都・尾張)は、方言を使っている(「連木」は「摺粉木」の上方方言)点、また、切腹を扱っている点から、武士層の多い江都に於いては採択に問題が生じる。 江戸が選んだ「良薬は口に苦し」は「孔子家語」の「良薬は口に苦く、病に利あり。忠言は耳に逆ひ、行に利あり」から発した諺であり、教訓としての汎用性は大変高いといえる。

「いろはガルタ」には、差別的な表現を含む句もあるが、歴史的背景を示す観点からあえて原形で掲載した。

京都 尾張(大阪) 江戸
一寸先は闇 一を聞いて十を知る 犬も歩けば棒に当たる
論語読みの論語知らず 六十の三つ子 論より証拠
針の穴から天(=天井)(のぞ) 花より団子 花より団子
二階から目薬 憎まれ子神固し 憎まれっ子世に(はば)かる
仏の顔も三度 ()れたが因果 骨折り損の草臥儲(くたびれまう)
下手(へた)の長談義 下手(へた)の長談義 ()をひって(しり)つぼめ
豆腐に(かすがひ) 遠い一家より近い隣 年寄の冷水(ひやみず)
地獄の沙汰も金次第 地獄の沙汰も金次第 (ちり)も積もれば山となる
綸言(りんげん)汗の(ごと) 綸言(りんげん)汗の(ごと) 律儀(りちぎ)者の子沢山(だくさん)
(ぬか)(くぎ) 盗人(ぬすびと)の昼寝 盗人(ぬすびと)の昼寝
類をもって集まる 類をもって集まる 瑠璃(るり)玻璃(はり)も照らせば光る
鬼も十八 鬼の女房に鬼神 老いては子に従ふ
笑ふ(かど)には福(きた) 若い時は二度ない 破鍋(われなべ)綴蓋(とぢぶた)
(かへる)(つら)に水 陰裏(かげうら)の豆もはじけ時 かったいの瘡恨(さかうら)
夜目遠目笠のうち 横槌(よこづち)で庭を掃く (よし)の髄から天井を見る
立板に水 大食上戸(もち)喰らひ 旅は道連れ世は情
連木(れんぎ)で腹を切る 連木(れんぎ)で腹を切る 良薬(れうやく)は口に苦し
(そで)振り合ふも他生の縁 (そで)振り合ふも他生の縁 総領の甚六
月夜に釜を抜く (つめ)に火(とも) 月夜に釜を抜く
猫に小判 寝耳に水 念には念を入れ
()す時の閻魔顔(えんまがほ) 習はぬ経は読めぬ 泣面(なきつら)(はち)
来年の事を言へば鬼が笑ふ 楽して楽知らず 楽あれば苦あり
(むま)の耳に風 無芸大食 無理が通れば通理引っ込む
(うぢ)より育ち 牛を馬にする (うそ)からでた(まこと)
(いわし)(かしら)も信心から 炒豆(いりまめ)に花が咲く 芋の煮えたの御存じない
(のみ)といへば槌 野良(のら)の節句働き (のど)元過ぎれば熱さ忘るる
負ふた子に教へられて浅瀬を渡る 陰陽師(おんやうじ)の身の上知らず 鬼に金棒
臭い物に(はへ)がたかる 果報(くわほう)は寝て待て 臭い物に(ふた)
闇に鉄砲 闇に鉄砲 安物買ひの(ぜに)失ひ
()かぬ種は生えぬ 待てば甘露(かんろ)日和(ひより)あり 負けるは勝ち
下駄に焼味噌 下戸(げこ)の建てた蔵はない 芸は身を助ける
武士は食はねど高楊枝(たかやうじ) 武士は食はねど高楊枝(たかやうじ) (ふみ)はやりたし書く手は持たず
これに懲りよ道斎坊 志は松の葉 子は三界の首っ(かせ)
縁と月日 閻魔(えんま)の色事 得手(えて)に帆を上げ
寺から里へ 天道人を殺さず 亭主の好きな赤烏帽子(えぼし)
足の下から鳥が立つ 阿呆(あほう)につける薬がない 頭隠して(しり)隠さず
竿(さを)の先に鈴 触らぬ神に(たた)りなし 三遍回って煙草(タバコ)にしょ
義理と(ふんどし)かかねばならぬ 義理と(ふんどし) 聞いて極楽見て地獄
幽霊の浜風 油断大敵 油断大敵
盲の垣のぞき 目の上の(こぶ) 目の上の(こぶ)
身は身で通る ()売りが古箕(ふるみ) 身から出た(さび)
(しわ)ん坊の(かき)の種 尻喰(しりくらへ)観音 知らぬが仏
縁の下の舞 縁の下の力持ち 縁は異なもの
瓢箪(ひょうたん)から(こま) 貧僧の重ね() 貧乏暇なし
(もち)は餅屋 桃栗(ももくり)三年柿八年 門前の小僧習はぬ経を読む
せんちで饅頭 背戸の馬も相口(あひくち) 背に腹はかへられぬ
(すずめ)百まで踊忘れぬ 墨に染まれば黒くなる 粋は身を食ふ
(きやう)田舎(ゐなか)あり (この項なし) (きやう)の夢大阪の夢

いろは歌

すべての仮名を一度ずつ使った、次のような「いろは」で始まる四十七字の歌を「いろは歌」という(括弧内は歌詞の意味)。
いろはにほへと(色は匂へど)
ちりぬるを(散りぬるを)
わかよたれそ(我が世誰ぞ)
つねならむ(常ならむ)
うゐのおくやま(有為の奥山)
けふこえて(今日越えて)
あさきゆめみし(浅き夢見じ)
ゑひもせす(酔ひもせず)
「いろは歌」には古くから二通りの読み方がある。 一つは歌詞の意味とは関係なく七音ごとに区切って、その字の表す音のまま読む読み方で、もう一つは歌詞の意味に従って現代音で読む読み方である。 また、末尾に「京」または「ん」を添えることもある。

すべての仮名を重複させずにすべて網羅した歌としては、ほかに「あめつち」「たゐに」の詞がある。 「あめつち」は仮名四十八字を用いたもので、ア行のエとヤ行のエとが音韻的に区別されていた10世紀中葉以前の成立と推測されている(→「あめつちの(ことば)」の項)。 「たゐに」は源為憲(みなもとのためのり)著「口遊(くちずさみ)」(970年成)に見えるもので、仮名四十七字を用いた五七調の歌詞である(→「たいに」の項)。 ア行のエとヤ行のエとの区別がなくなった状況を反映して、エの重複を退けているが、「いろは歌」への言及はない。

「宇津保物語」国譲巻には「あめつち」を手習歌として用いたことが記されているが、平安時代中期ごろの手習歌には普通「なにはづに」「あさかやま」の歌が使われていたようである(「源氏物語」若紫)。 その後、12世紀初めに仮名手本すなわち「いろは歌」は弘法大師(774-835)の作であるという説(「河海抄」所引の「江談」1109年(天仁2)条)が現れることから、院政時代には手習歌として普及していたことが知られる。

七五調四句は「今様」という歌謡形式で、平安中期以降に生じ末期に盛んに行われたものであって、弘法大師の作とは考えにくい。 音韻的に見ても、ア行のエとヤ行のエとの区別がなくなった10世紀後半以降に製作されたものと見るべきである。

現存最古の「いろは歌」は1079年(承暦3)写の「金光明最勝王経音義」(大東急記念文庫蔵)に所蔵されたもので、七音ごとに区切り、原則として大小各一対の万葉仮名で書き記されている。 その後「いろは歌」に関する資料は増大するが、前記したように「口遊」や「源氏物語」など11世紀初頭以前の文献には「いろは歌」についての記事がないことから、11世紀初めから中ごろにかけて成立したものと考えられる。

「いろは歌」は「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」を意訳したものと言われており、恐らく僧侶によって仏教教学の中から生み出されたものであろう。そのため作者を弘法大師に擬する俗信も生じたと見られる。 成立当初は仏教教学の間で誦えられていたが、仏教思想の浸透とともに俗家にも広まり、手習いの手本として「いろは歌」は絶対視されるようになったのである。

    挿絵:「口遊」     挿絵:「金光明最勝王経音義」

その製作のきかっけは「あめつち」「たゐに」などと同じく、仮名を重複させずに網羅してまとまった内容に仕上げるという知的遊戯であったと考えられるが、漢字音の声調を学習するために作られたとする説もある。

「いろは歌」は仮名の重複がないため、語彙の排列の基準としても盛んに利用された。 「色葉字類抄」(1144~1181年成)をはじめ、古辞書や仮名遣い書の類は江戸時代に至るまでほとんどがイロハ順であった。

飯尾宗(1421-1502)は藻をモともメとも言うことから、「めともいふなり もともいふなり」の前句に対して、即興で「よむいろは教ふる(ゆび)の下を見よ」と付け句した。 これはいろは歌でユの下はメ、ヒの下はモであることを詠んだもので、五十音図を常日頃からよく観察していた所産であろう。 また「仮名手本忠臣蔵」(1748年初演)は四十七士を仮名四十七字にちなんで「仮名手本」と題するとともに、七音ごとに区切った場合の最後の仮名を右から順に読んだ「とかなくてしす」すなわち「(とが)無くて死す」を暗示したものとも言われている。 このように、「いろは歌」は高度な遊戯性を備えたものとして利用され、江戸時代後期には「いろはガルタ」をも生み出した。

五十音図

横に十字ずつ同じ母音を有するものを、縦に五字ずつ同じまたは類似の子音を有するもの並べた仮名の表を「五十音図」という。 最近では縦に十字ずつ、横に五字ずつ並べたものも見える。 十字の組を段または列と言い、それぞれアイウエオに代表させてア段、イ段と呼び、五字の組を(ぎょう)と言い、それぞれア段の仮名によってア行、カ行などと呼ぶ。

その仮名を読む順序は、アイウエオ順とも呼ばれるように先ず五字の組からアイウエオ、カキクケコと進むのが一般的であるが、古くは十字の組からアカサタナの順に進むものもまれにあった。 また、今日では平仮名で示されることが多いが、かつては片仮名が用いられた。

五十音図では、古くは「五音」「五音図」「五十聯」「五十連音」などとも呼ばれ、現存最古のものは醍醐寺蔵「孔雀経音義」(11世紀初頃写)所載のものである。

キコカケク シソサセス チトタテツ
イヨヤエ ミモマメム ヒホハヘフ
ヰヲワエウ
リロラレル

現行のものと比較すると段・行の順序がともに異なり、ア・ナ行が欠けている。 これに次いで古い「金光明最勝王経音義」(1079年写)所載のものや「反音作法」(1095年写)所載のものは段の排列はアイウエオ順だが、行に関してはいずれも現行のものとは異なる。 行がアカサタナハマヤラワ順になるものは鎌倉時代後期からやや多くなり、江戸時代初期に入ってようやく固定する。

このように行や段が一定しなかったことは五十音図の由来と密接な関係がある。 その製作の目的については、漢字音すなわち反切を説明するため、悉曇(しったん)(梵字)を学習するためなどの諸説があるが、恐らくは韻図(いんず)に擬して日本語でも仮名を同じ子音、同じ母音で縦横に相通させる図が考え出され、それに悉曇学の影響で悉曇字母に対応する仮名の順に排列されるようになったのであろう。 当初は悉曇字母との対応が流動的であったため、種々の音図が作られたものと考えられる。

五十音図は、早くから語学的研究に用いられ、仮名遣い・語釈・係り結び・活用などの説明に利用された。 特に江戸時代中期以降は、国学において音韻・文法・語釈などの日本語研究の基礎に据えられ、明治に入るとその合理性によって国語教育にも取り入れられた。

語彙の排列も江戸時代まではイロハ順がほとんどであった。 五十音順排列の古辞書としては「温故知新書」(大伴広公著 1484年成)が最も古いものであるが、イロハ順に代わって五十音順が一般化するのは明治時代に入ってからである。 大槻文彦著の「言海」(1889~91年刊)は普通語の辞典として画期的な意義を有するが、同時にこれが五十音順排列であった意味は大きい。 これ以降辞書における語彙排列が五十音順に定着していくのである。

近年、歴史的仮名遣いにしか用いられない「ゐ・ゑ」を省いたり、更にはヤ行の「い・え」とワ行の「う」までも省いた表を、「五十音図」と呼ぶこともあるが、これは五十音図の拡大解釈である。 また、「ん(ン)」や濁音・半濁音・拗音などをも加えたりする場合も見られるが、そうした背景には日本語の音節構造を組織的に整理排列した表であるという考え方がある。 しかし、五十音図は本来、五十の音をイロハ四十七文字で示した表であって、厳密な意味で日本語の音節を網羅するものではない。 むしろ、それは音節を書き分ける仮名文字の序列を示しているところから、仮名の字母表の一種であると見るべきである。

挿絵:「反音作法」