【序】
『大辞林』の初版は、長い編集期間を経て1988年11月に刊行された。また、第二版は1995年11月に刊行され、それから既に11年が経過しようとしている。この間、バブル経済崩壊後の平成不況と金融危機、中央省庁再編や公団民営化を始めとした各分野での制度改革、また地方レベルでも平成の大合併と言われる市町村合併や地方分権の大きな動き、世界的にも9・11テロ以降の中東における戦火の拡大など、今までの社会の枠組みが大きく変動するような出来事が連続的に生起し、11年前とは様相が一変してしまった事柄・分野も少なくない。
21世紀という新しい時代の中で、社会の変動とともに、私たちが日常接している言葉や情報もまた大きく変貌を遂げようとしている。新しい言葉、新しい表現、新しい用法などが、私たちの言語生活の中で相当な量になろうとしている時、早急に大辞林を改訂して世に送り出すことは私どもの課題であった。今、関係者のご尽力のもと内容を一新して第三版として刊行するものである。
『大辞林』の編者、松村明先生は2001年11月にお亡くなりになった。先生は企画発足以来四十数年、本書の編纂・改訂事業にお力を注いでこられた。本書に対する先生の永年のご尽力に敬意を表するとともに、ここに心からご冥福をお祈り申し上げる次第である。
私ども編集部は、第二版の刊行直後より、第三版に向けた改訂方針と個々の記述の改善につき、松村先生と検討を積み重ねて来た。この第三版は、そこで確認された改訂方針にしたがって編集されている。具体的には時代にふさわしい新項目の大幅増補、用例の充実とりわけ近代作家用例の増強、副詞項目の記述の充実、誤用の指摘を含む言葉の用法についての注記追加、などである。
この第三版が無事刊行にたどり着くことができたのは、さまざまな方面からの絶大なご協力・ご支援があってこその賜物であると、あらためて感謝申し上げる次第である。わけても、改訂方針のもと、原稿完成に邁進していただいたご執筆の先生方、そして初版・二版と本書に対し変わらないご教示とご声援をいただいた読者の方々にここで厚い謝意を表するものである。
以上、新しい世紀となって本邦で初めて刊行される一冊物大型国語辞典として、本辞典が読者諸賢の倍旧のご愛顧をいただきつつ、さらに進化発展してゆくことを心より願うものである。
2006年9月
本辞典は、現代の国語生活をふまえ、現代語の記述に重点を置きつつ、古語や百科語をも含めた総合的な国語辞典をめざしたものである。したがって、古語から現代語に及ぶ一般国語語彙のほかに、現代の各種専門領域の用語や人名・地名などの固有名詞をも数多く収めている。
わが国における近代の国語辞典としては、明治期における大槻文彦博士の『言海』がその基本的な型をつくったとされており、その後の国語辞典は、この『言海』を土台として発展してきているということがいえる。それは、特に昭和にはいって大きく発展し、いくつかの浩瀚な国語辞典が刊行され、さらに戦後にいたっては、いっそう内容の充実したものも出現している。これらは、そのほとんどが国語の歴史的記述をもとにしている。一冊ものの大型国語辞典も、今日、それぞれ特色のあるものがいろいろ刊行されているが、それらのものも、どちらかというと、歴史的記述をもとにしたものが主流を占めているということができる。
ところで、本辞典においては、現代語の記述に重点を置きながらも、日本語の長い歴史の中での語義や用法の変遷をも、別の形でしっかり取り上げておくという方式をとることにした。すなわち、古語から現代語へのいろいろな変遷過程は十分に取り込んだ上で、現代語の記述を中心に据えた、新しい型の国語辞典をめざしている。現代語の語義記述にあたっては、まず最初に現在用いられている最も一般的なものがしるされる。一般的な語義のあとに特殊な語義などが記述され、その後に、必要に応じて、古語としての語義が記述される。もっとも、語によっては、ただ単純に現代語としての語義、古語としての語義というようなわけにもいかないことがある。それで、一つの語のいくつかの語義の関連性などを説明するためには、必要に応じて、語源・語誌欄や補説欄を設けて、その語の語源、語義・用法の変遷などを付説することにした。このようにして、その語の現代語としての語義・用法、また、その語の出自・来歴などを全体として把握することができるようにした。なお、古語としてのみ用いられるような語については、原義から転義へという順序で、その語義・用法を記述することは言うまでもない。
辞典を使用する人々の立場からすると、従来のような歴史的な記述をもとにしている辞典においては、過去から現代へというつながりの中で語の変遷がとらえられているので、仮に現代語における意味や用法を求めようとした場合でも、古い時代の語義や用法から見ていくことになる。しかも、その場合、語によっては、現在用いられていることばでも、古典における語義や用例の掲出ということで、その語の記述が終わってしまっているということもあり得るのである。しかも、それが現在でも用いられているのか用いられていないのかということは、読者の判断に任せられているわけである。結局のところ、歴史的記述を中心とした辞典においては、ことばの来歴を知るのには役立つが、その語が現在どのように用いられているかを知る上では、その辞典の利用者のしかるべき判断を前提にしないと、効果的に利用することができないということもあり得るのである。それが、本辞典のようにその語が現在どのように用いられているかに重点を置いた辞典では、過去にどのように用いられていたかということを含めて、その語の意味・用法などの情報が、現在の時点において、過不足なく与えられるという利点が考えられるわけである。
さて、本辞典においては、用例についてもこれを重視し、必要に応じて、作例または出典付きのものを掲出することにした。従来の歴史的記述を中心にした辞典においては、その語が、いつ、どういう場面で、あるいはどういう形で用いられているかを示すために、すなわちその語の出自や来歴を具体的に示すために用例を掲出するのが一般である。しかし、本辞典においては、必ずしもこのような立場で用例の掲出をしようとはしていない。本辞典においては、現代語を重視していることは前述のとおりであるが、現代語について、まず的確にとらえ、これを細かい点までを含めて、しっかり記述することを心がけた。ところで、その語がどういう意味に、また、どういうふうに用いられているかを、ただことばによって説明・記述するだけでは、ややもすると抽象的な記述になり、しかも、限られた字数による説明では、細かい点までを十分に記述しつくすことが困難であるということがある。そこで、その語としての基本的な語義については、十分に説明・記述を行うが、その語が実際にどのように用いられるかについては、用例をもって示すことにした。現代語の用例は一般には作例によるが、明治期の語など、やや今日では特殊な語形・語義・用法と思われるものについては出典付きの用例を掲出する。なお、古語の場合には、どういう時代、どういう文献に用いられているかを示すために、出典付きの用例を掲出する。この場合でも必ずしも初出例ということにはかかわらないことにしている。以上、本辞典の編集に当たり、その基本的な方針、ならびに、それにもとづく特色の一斑についてしるしてきた。これを要するに、本辞典においては、現代語を中心としつつも、古語から現代語にわたり、百科語をも含めて、日本語の基本的な姿を記述しようとした。一冊の大型の新しい国語辞典として、いわゆる形・音・義の三面にわたり、基本的なものを十分におさえ、最も穏健にして中正なものをめざしてまとめたものなのである。
本辞典は、編集に着手してから今日まですでに28年有余の歳月を費やしている。この間、国語関係項目をはじめ、百科語や固有名詞など万般の語彙に関して原稿の執筆、校閲・整理などにつき、各方面の方々の御援助・御協力を得た。アクセントに関しては、NHKの放送文化研究所関係の方々の全面的な御協力に拠っている。また、この長い期間、三省堂は、終始一貫編者を援けて、編集実務の推進に努めてこられた。これらいろいろとお世話になった多くの方々に対して、ここに深く感謝の意を表する。
1988年9月
『大辞林』は、古代から現代に至るまでの日本語を、現代語の視点からとらえて記述した、いわば現代人のための国語辞典である。さらに、本辞典は国語語彙だけではなく、各専門領域のいわゆる百科分野の用語をも多数収録し、百科辞典的な機能をも兼ねそなえている。
本辞典の初版は長期にわたる編集を経て1988年11月に刊行されたが、その二ヶ月後には昭和天皇が崩御され、六十余年つづいた昭和の時代も終わり、平成という新しい時代へと移った。この間、中国における天安門事件、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツの統合、東欧諸国における民主化革命の推進、湾岸戦争、さらには、ソビエト社会主義共和国連邦の解体など、世界的にも、人々の耳目を驚かすような大事件が相次いで勃発した。このような激動を経て、二十一世紀という新しい時代へと向かいつつある今日、わたくしたちの周囲には、あらたな情報や言葉が満ちあふれている。
初版は、幸いにして好評をもって迎えられ、今日まで、多くの刷を重ねてきた。その間、大勢の読者からいろいろの御意見や要望が寄せられた。それらをも十分参考にしつつ、内容の整備や改訂の作業をすすめてきた。また、国際化・情報化社会といわれる今日の社会的状況をふまえて、新しく増補すべき項目の選定を行い、ここに、第二版を世に送るにいたった。
『大辞林』の編集方針については、すでに初版の序文に記したが、この第二版においては、初版の内容の一層の充実と、辞典としての機能を高めることに主眼を置いた。現代語に重きをおく本辞典の立場から、日常的な言葉を重視し、慣用的な用法についての記述を充実させたこと、また、言葉に関する知識をまとめた特別ページを拡充したことなどが、その一端である。さらに、1990年代という時代を反映した新しい項目を増補するとともに、今日一般的となったアルファベット略語や、漢字・難読語一覧などを巻末に増補したことも、総合的な国語辞典としての『大辞林』の機能性を一段と高めることになったと思う。これらの増補の結果、第二版では総項目数が23万余を数えることになった。
本辞典が読者諸賢の御叱正と御支援を仰ぎつつ、さらに発展していくことを願ってやまない。
1995年8月